バトンタッチしうるモノ -国内博・万博と博覧会資料COLLECTION-

石川 敦子
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石川 敦子

私は図書館司書として大阪の情報資料室に配属されて以来、役立つ資料室を目指して資料整理に取り組んでまいりました。 “意識しないと残せないモノ”に長年関わってきた視点から、今回は乃村工藝社と博覧会、そして博覧会COLLECTIONについてご紹介したいと思います。

1.    乃村工藝社と博覧会

1892年(明治25)に創業した当社は大正時代に入り、創業者・乃村泰資が当時大衆の娯楽として人気のあった菊人形を大規模な装置と仕掛けで演出し、「菊人形の乃村」といわれるようになりました。

他方、1914年(大正3)に開催された東京大正博覧会であたかも生きているかのように作られたほぼ等身大の人形を使った見世物「生人形館」を出展しています。


1914年東京大正博覧会イルミネーション之図


大礼記念京都博覧会_生人形

その後も国技館や百貨店で開催される博覧会という名のつくイベントの会場づくりを行ってきました。1928年(昭和3)の博覧会ブームの年には、創業の地・高松で開催された全国産業博覧会や上野公園で開催された大礼記念国産振興東京博覧会のパビリオン展示を手掛けています。


1928年全国産業博覧会(高松)

数々の国内博に関わりながら、戦後になると海外では1950年(昭和25)「パキスタン・カラチ国際貿易博」に展示技術者として社員派遣、翌年のシアトル日本貿易博覧会では通産省出品の「貿易と産業」「観光日本」、大阪市、神奈川県、高島屋などの各展示を担当しました。


1951年シアトル日本貿易博

一方、国際博覧会との関わりは、博覧会国際事務局(BIE)の認定を受けずに開催された1964年ニューヨーク世界博覧会日本館の展示施工に始まります。
そしてアジア初の国際博覧会となった日本万国博覧会(大阪万博)では18館の展示施工に関わります。この大阪万博で、①ジョイントベンチャー方式(JV)、②ロボット等の技術開発、③海外のディスプレイ会社との契約などを経験し、当社の大きな転機となりました。

その後も国内で開催された1975年沖縄海洋博覧会で13館、1985年国際科学技術博覧会(つくば万博)で22館、2005年日本国際博覧会(愛知万博)で24館の展示施工に関わりました。
また、海外で開催される国際博の日本館の展示施工は、1992年セビリア万博・ジェノヴァ万博、1993年大田万博、1998年リスボン万博、2000年ハノーバー万博、2010年上海万博、2015年ミラノ万博まで続いています。

後述する博覧会資料COLLECTIONのデータベースでは現在、当社が展示施工に関わった博覧会が200件ヒットします。2022年に130周年を迎える歴史のなかで博覧会は、先人たちの創意と工夫に満ちた足跡として大きく位置づけられます。

2.    博覧会資料COLLECTIONのはじまり

私は社員からのレファレンスに応えるために図書や竣工写真のデータベースづくりに永らく取り組んでいましたが1993年(平成5)、100年史『ディスプレイ100年の旅』が出版された後、編纂担当者から「橋爪先生とともに、外部ブレーンとして週に一度通っていた寺下勍さんは日本でも有数の博覧会資料を持っている方で、寄贈先を探しておられる。乃村も候補に入っているらしいから、時間ができたらその資料を拝見させてもらいなさい」と助言されていました。

21世紀を迎えようとしていた頃、資料室の充実を図るため、“オリジナルなコンテンツを持つ”ことを考え始めていました。当社が関わる商業施設、PR・イベント施設、パブリック・ワークスペース、文化施設、余暇施設は博覧会を淵源とする水脈の流れの中に位置づけることができます。博覧会資料は当社のオリジナルコンテンツとして相応しいのではないかという思いに至りました。上司とふたりで寺下さんの博覧会資料を拝見に伺い、役員の了承を得て寄贈のお願いにあがりました。

2001年秋、寺下さんは「私蔵することなく世の中に役立てること」という唯一の条件を出されて約1万点の博覧会関連資料を当社に寄贈されました。


2001年資料搬入時

「目録は私の頭の中」とおっしゃられる博覧会資料が2tトラックで2回、会議室に運び入れられ、“何も捨てない”をモットーに資料整理を進めました。当初から“社外に公開する”ことを視野に入れてデータベースの登録と原資料の分類保管を行いました。
この頃、資料について教えていただくために、週に一度来社される寺下さんから「石川さん〇〇の資料はどこにある」と聞かれるのが一番怖かった・・・

2002年6月、寺下さんがお付き合いされてきた方々に、ご寄贈資料を一堂にひろげてお披露目する「博覧会資料を見る会」が大阪事業所の多目的ホールで開催されました。
そしてその会場で橋爪紳也教授(現・大阪府立大学特別教授)の提唱で博覧会文化史研究会が始まりました。


2002年資料整理中(真中が寺下さん)

愛知万博が開催される2005年、20回開催された博覧会文化史研究会の成果として橋爪紳也監修『別冊太陽 日本の博覧会』(平凡社、2005年2月)が出版されると同時にデータベース「博覧会資料COLLECTION」が当社HPで公開されました。(現在、Googleで「博覧会資料」と検索するとトップページに表示されます。博覧会略史はこちら/博覧会資料検索はこちら


『別冊太陽日本の博覧会』

公開された博覧会資料COLLECTIONは公式記録・写真集・ポスターといった公刊物にとどまらず、錦絵・バッジ・メダル・入場券・パンフレット・絵葉書などの雑資料にいたるまでを網羅している点に特徴があります。

また明治期から今日にいたるまで、国内で催されたほぼすべての博覧会を対称とする広がりにおいて国内で開催された博覧会の通史に近い資料群となっています。

3.    社外へ広がる博覧会資料COLLECTION

資料が出版物とネットで公開された後の私の仕事は、主旨に賛同していただいた方々からの資料の寄贈、研究者や学芸員、企業の担当者からの問い合せ・資料閲覧・貸出対応など、社内から社外へと広まっていきました。貴重な資料を扱う者として恥ずかしくないように2011年、学芸員の資格を取得しました。

番組取材で来られた赤瀬川原平氏や宝塚歌劇の女優さん、著書の資料調査で来られた荒俣宏氏や堺屋太一氏、フンボルト大学・ペンシルバニア大学・マンチェスター大学・ソウル大学などの先生方、通常ではなかなかお目にかかれない方々と数時間あるいは数日間、密な時間を過ごさせていただきました。
2011年には佐野真由子教授(現・京都大学大学院教授)が主宰する研究会「万国博覧会と人間の歴史」に参加させていただくようになりました。この研究会には様々な専門分野のグローバルな研究者だけでなく、博覧会の実務者も複数参加されていました。

2年が過ぎたころ、佐野教授から研究会の成果としての論集出版が話されるようになり、「私は研究者ではありませんので、論文など書けません。そもそも2万字の文章など書いたことがありません。」とお伝えしたところ、今も忘れられない言葉が返ってきました。「研究者でなくても石川さんくらいの勤務歴があれば、後輩に伝え残したいことがきっとあるはずです。それを書かれてはどうでしょうか?」と。
休日は、国立国会図書館や都立中央図書館に通うか、自社の資料を見ている日々が続きました。業界の大先輩たちにも助けていただいてようやく拙稿「資料から見るランカイ屋と装飾業の歴史」を提出することができました。(佐野真由子編『万国博覧会と人間の歴史』(思文閣出版、2015年10月)に収載)


万国博覧会と人間の歴史カバー

2016年、佐野真由子教授から「万国博覧会と人間の歴史」の第二期研究会が招集されました。①期間の3年後には60歳を越えていること、②やはり論文執筆が大変であったこと から続けさせていただくことを大変悩みました。
しかしながら、“博覧会資料を私蔵することなく世の中に役立てるため、そしてこの研究会で得た貴重な経験や素敵な出会いを次世代に引き継ぎたい”という思いから招集をお受けしました。

2020年7月、佐野真由子編『万博学 ―万国博覧会という世界を把握する方法―』が思文閣出版から出版されました。


『万博学 ―万国博覧会という世界を把握する方法―』

この論集は前回の論集同様に研究者だけでなく、博覧会実務者などが執筆された32本の論文が収載されています。当社からは執行昭彦・森 誠一朗・岸田匡平グループがビジュアル年表「万博日本館にみる「展示デザイン」の変遷」を、OB清水 章がコラム「大阪万博への飛翔」を、私は前回論文の続編「展示装飾業からディスプレイ業へ ―大阪万博前後からの展開」を寄稿しています。

博覧会資料COLLECTIONは現在も成長しているのと同時に、人的ネットワークも広がり続けています。来年度からの『社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の歴史』(帝国書院)にも資料が掲載されます。 今回のパンデミックによりデジタル化は大いに進むと思います。なおさらのこと“原資料が持つ魅力”を2025EXPOのその先へバトンタッチしたいと考えながら今日も業務にあたっています。

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